肝移植には至らなかったものの深い絆で結ばれたある夫婦の物語

十束英志

始まりは1本の電話から

 平成1x年、まだ岩木山の頂きに白い雪化粧が残る3月17日土曜日の夕方、医局の食堂で新聞を広げているところに第1研究室の電話がけたたましく鳴りました。ラボさん(医局事務)たちは既に帰宅しており、他に誰もいない部屋で受話器を取りました。電話の相手は第一内科から青森市内にご夫婦で開業している駒井立子先生、ちょっと急いでいるご様子で肝移植の担当者と話をしたいとのことです。肝胆グループ オーベンの袴田健一先生は帰宅した後で、先ほど通りすがりに見たネーベンの鳴海俊治先生の第3研究室は既に電気が消えていました。「私、十束と言いますがお話をうかがいます」とお答えしたら、「あら、十束先生ですか!?」と声が和らぎ、自分より2、3年上の学年で、何かの機会にお会いした駒井先生の顔が思い出されました。ある患者さんに肝移植をお願いしたい、と言う話でありました。
 患者は佐多雅司さん(仮名)53歳男性、輸血歴のあるC型肝炎肝硬変で、径1cm弱の肝細胞癌を疑う孤発性の腫瘍が認められるとのことでした。腹水コントロール不良にて年末より駒井内科に入院したものの、この1月に吐血して青森県立中央病院で食道静脈瘤に対する内視鏡的硬化療法が行われ、いよいよ腎不全に移行する状態とのことでした。妻である佐多睦子さん(仮名)51歳が自分をドナーとした生体肝移植を希望しているとのことでした。週明けには必ずご連絡しますとお答えして電話を切りました。

患者来院そして肝移植へ向けて加速

患者来院そして肝移植へ向けて加速

 週が明けて月曜日の朝、総回診の前に袴田先生に土曜の電話の件を伝えてからは急速に話が進みました。まずは、駒井内科からの紹介として患者を受けるよりも、駒井ご夫妻出身の第一内科経由で紹介を受けた方が良いとの、なんとなく政治的な判断が下されました。早速、午後には駒井先生にその旨をお伝えしたところ、速やかに折り返しの電話、3月23日金曜日の第一内科入院が決まったとのことでした。
 23日、青森から患者、佐多雅司さんが当院に到着したところで第一内科 須藤俊之先生より肝移植の必要性が説明され、その日のうちに本人とドナーとなる奥さんの睦子さんから生体肝移植の依頼が正式にありました。青森からの移動で疲れたのか、あるいは治療の方向性が決まってホッとしたのか、翌24日、雅司さんは第一内科病棟で吐血、血圧低下と無尿、意識レベル低下が認められ、第二外科へ転科となり集中治療室(ICU)入室、持続血液濾過透析(CHDF)が開始されました。腹部CTでは著明に萎縮して表面凹凸不整の肝臓と脾腫、大量の腹水が認められ、腹腔ドレナージを行いました(図1)。肝移植へ向けた準備に一気に拍車がかかる1日でありました。
 それにしても、末期肝硬変患者が大学病院の外科に入院してICUでCHDFと言うのはそうそう見ない光景でありました。私が一年目に行った五所川原 白生会胃腸病院では肝硬変の患者はたくさんいましたけれど、そこまでの集中治療はなされませんでしたし大学病院に紹介することもありませんでした、西北五地区はアルコール性がほとんどでしたし。今回の患者への対応はその先に肝移植があるからならでは、であることは言うまでありませんでした。

ドナーの過去

 平成10年代初頭のこの時期、当科生体肝移植の初期のマネージメントは豊木嘉一先生と私の平成2年卒の二人が交代でやっておりました。暗黙の了解と患者が発生するタイミングもあって、主として豊木先生が小児、私が成人を担当しました。どう言うわけか上手い具合に小児と成人が交互に来ており、ちょうど前年7月の乳児肝炎後慢性肝炎の3歳男児のケースは豊木先生が担当しました。
 そのマネージメントの最初の段階がドナーへの問診であります。棟方博文教授と須貝道博先生の小児外科の子供にしろ、他所から紹介された患者にしろ、末期肝不全症例が当科に来るのは生体肝移植が目的であり、それは生体ドナーがいてこそ成立するため、極めて重要な初動であります。今回のドナー候補である妻の佐多睦子さんと初めて面談したのは3月26日月曜日、検査入院して来た際でありました。レシピエントであるご主人の病態への理解と生体肝移植のドナーとなるのが自己意思であることを確認して、既往歴を質問したところ、約20年前の30代に当科での手術既往があるとのことでした。咄嗟に「胆石ですか?」と尋ねたところ「直腸の腫瘍でした」との返事が返って来ました。あまりよく憶えていないとのことで、カルテを取り寄せて確認する旨をお伝えしました。
 電子カルテではありませんので、名前やIDで検索して既往歴がすぐに解るものではありません。入院簿で「佐多睦子」の名前を見つけて、病名の欄に「直腸癌」と書かれており、軽い衝撃を受けて医局のラボさんに紙カルテを出してもらいました。見てびっくり、そこには以下の記載がありました。

手術 昭和5x年(198x年)oo月oo日(33歳時)
術前診断 直腸癌、子宮浸潤疑い
術式 低位前方切除術 (D3)、子宮全摘術、両側付属器切除術
病期分類 Ra, Ant, 5x4.5cm, 3/5周, 3型
a2P0H0n2(+)(#252)M(-) Stage IIIb
病理診断 aw(-), ow(-), ew(-), cur A
mucinous carcinoma, INF-γ, ly(+)

 なんと、下部グループ 森田隆幸先生が執刀したその手術は高度進行癌に対する拡大手術でありました。しかも術後化学療法としてマイトマイシンC(MMC)6mg 静注11回、ユーエフティーE(UFT-E)600mg/dの1年間の内服が行われました。もちろん手術から19年が経過しており再発兆候はなく、完治しているのは明白で、この既往歴が障害とはならないのですが、生体肝移植の場合、とりわけドナーについては精神鑑定や倫理委員会を経て手術に至りますので、癌の手術既往について本人にしっかりと確認する必要があると考えました。
 佐多睦子さんと二度目の面談をしたのは3月28日でありました。「19年前の手術ですが、直腸の腫瘍は悪性だったようです」と担当直入に申し上げたところ、「やっぱりそうなんですね。そんな気はしていました」との返事、さらに続けて「先生からは詳しいことは聞かされなくて、夫はただ『大丈夫!』を繰り返すだけでした」と冷静な面持ちで仰いました。ここから先は余計なことかもと思いつつ「その際に婦人科の方も切除したことはご存知でしたか?」と尋ねたところ、睦子さんは少しびっくりした表情で「私、子宮も切除されたんですか?」と逆に質問されて、「しまった!」と思いつつ「ええ、まあ」とお答えしました。睦子さんは「私、何も聞かされてなくて」とポツリと言って、ふと思い出したように「でも、何年かして私が『なかなか子供できないね』と言ったとき、あのひと、『そのうちできるよ』って笑って励ましてくれたことがあったんです」と言われました。「当時は本人にはっきりとは伝えないことが多くて、ご主人はなんとしても奥さんを不安にさせまいとしたのでしょうね」と申し上げました。これで良かったのかどうか?、釈然としないままその場はお開きとなりましたが、その時の状況から、ドナーとなる彼女が既往歴の事実を知ったところで、今更、何も変わりはしないことだけは確信しておりました。

いよいよ移植の準備

いよいよ移植の準備

 レシピエントの佐多雅司さんはCHDFを回しつつ大量輸血を行い、腹腔ドレーンから腹水を連日何千ccも抜きながら、徐々に循環動態は回復、4月3日には血液透析(HD)に変更、5日にはICUから退室、1病棟4階の第二外科の病棟に移動して来ました。ちょうど4月でベッド交代となり、私は外来実験班から肝胆グループへ、豊木先生が外来実験班へ、袴田先生、鳴海先生、そして吉崎孝明先生、板橋幸弘先生との5人体制となりました。5月のGWにばたばたしたくないので4月の中旬までには手術をしたいものと、日程を占う噂が出始めた時期でありました。
 ドナーの評価は急ピッチで進めており、睦子さんの術前検査の一貫である胃カメラは第二外科外来でやりました。内視鏡のアングルをかけて胃角部小弯を見上げた時、やや後壁寄りに小潰瘍(A2)が認められ、1個だけ生検をしました(図2)。いろいろと気苦労があってストレスが溜まっていると推察され、すぐにプロトンポンプ・インヒビターの静注を始めました。
 移植する予定の肝臓の評価は重要で、脂肪肝が無いことに加えて、成人間の生体肝移植でとりわけ妻から夫に肝臓を提供する場合は移植肝のサイズが問題となります。小さな肝臓では移植片機能不全を来す可能性があるからで、これに対して、全肝の6割を超える拡大右葉を移植する施設もありました。しかし、当科の佐々木睦男教授は頑なに「右葉ではやらない」と断言されておりました。もちろんドナーのリスクを考えてのことです。
 佐々木先生は私が入局した時すでに筆頭講師で肝胆グループのオーベンであった大先輩ですので誠に僭越ながらの私見ですが、手術における咄嗟の判断や方向転換と言った、いわゆる「手術の勘」がすごく優れた人物のように思いました。このことは森達也先生からも同じようなことを聞いたことがありました。例えば、さらに10年も前の平成2年、膵鈎部の膵管内乳頭粘液腫瘍に対して膵頭十二指腸切除術の予定で執刀した遠藤正章先生に、前立ちの佐々木先生が突然、背側膵切除術に切り替えようと提案されたことがありました。術前カンファレンス(POC)で話題にもならなかった術式は、佐々木先生が計画したと言うよりも咄嗟に勘が働いたのだろうと思われました。「この疾患にはこんな手術を考えるべきなんだよ!」との佐々木先生の言葉に、遠藤先生は終始困った様子でしたし、術後は膵液瘻で苦労しました。
 「右葉ではやらない」とする佐々木教授の方針に今回も変わりはありませんでした。レシピエントは健常時の身長173cm、体重72kgで標準肝重量は1323.8gでありました。これに対してドナーは150cm、44kgで標準肝重量968.9gに対してCT volumetryで算出した全肝950.7g、拡大左葉は410.4gであり、レシピエント標準肝容量に対する移植肝容量(GLV/SLV)は31.0%でありました。当時一般的に30%あればなんとかなる、できれば35%以上が望ましいとされており、移植肝のサイズとしては厳しい状況でありました。

青天の霹靂から移植はキャンセルへ

 ドナーとレシピエントの佐多ご夫妻が同一の病棟に揃った4月5日には移植のマネージメントはすでに最終段階に入っておりました。ご夫婦の精神科的評価をいただけば倫理委員会に提出する書類は完成ですし、実施検討委員会はほぼ同じものを使い回して、もっと文章を簡略化したのがPOCとなります。そろそろ手術当日の人員配置やアルバイトの調整に入るところでありました。
 4月7日土曜日は寒い日でありました。病棟に届いていた病理結果を見て目が飛び出たのを今でも憶えております。ドナー候補の睦子さんの胃潰瘍からたった1つ採取した生検結果は “group V, adenocarcinoma” であり、なんとドナー候補は胃癌でありました。真っ先に思ったのは「あのご夫婦になんて話そう?」と言うこと、「生検なんかするんじゃなかった!」との思いも頭をよぎりました。確か教授と袴田、鳴海、豊木先生らは医局にいたはず、と研究棟まで走って戻りました。
 病理結果をお話ししたところで一同に溜息が漏れました。蚊の鳴くような「なんとか、胃切除とドナー手術を同時にできませんかねぇ〜?」と、私の言葉は虚しく語尾も弱く、その場は静寂に包まれました。鳴海先生は窓から曇り空を眺めて口を閉ざしています。佐々木教授はチッと舌打ちをして腕組みをしながら首を傾げ、袴田先生もうつむいて無言を貫き、豊木先生に至っては不意に部屋から出て行ってしまいました。この光景は、メジャー初ホームランを打った大谷翔平選手をナイン全員が無言で迎えたエンゼルスベンチの「サイレント・トリートメント」のようでありました、状況は激しく違いますが。最初に口を開いたのは佐々木教授でした。「うん、まあ、なんだ、とつかくん!、今回はドナーが小さくて、やらなくて正解だったかも分からんよ!」と言われました。「ああっ!、論点がずれた!」と私は直感しましたが、前の年の1月に経験した成人間生体肝移植で移植肝が極めて小さく機能不全に苦しんだ経験から絞り出た言葉、言うなれば教授の本音だとすぐに理解しました。

 週明けには追い討ちをかけるような事実が発覚しました。入院後にドレナージを行ったレシピエント、雅司さんの腹水細胞診でclass Vの診断が出ました。肝細胞癌が腹水中に浮遊しているとのこと、これに対する袴田先生の反応は速やかで「癌性腹膜炎じゃあね!」との言葉はさらに私を奈落の底に突き落とす響きがありました。でもすぐに、この事実でむしろご夫婦は救われると直感しました。袴田先生の「癌性腹膜炎」と言う言葉にそのヒントが隠されておりました。
 胃癌であるドナー側の要素で肝移植ができないとなると、奥さんは悔やんでも悔やみきれず、ご主人に申し訳ない気持ちになるでしょう、自分を激しく責めるでしょう。しかし、レシピエントが癌性腹膜炎では免疫抑制剤を使用する肝移植後に癌の再発は必至であります。つまり、今回の手術は、レシピエント側の要素、進行した病態から適応がなかったと言うことになります。
 ものは言い様です。この段階で初めてご夫婦に移植手術のキャンセルを別々に告げましたが、あくまでもレシピエントの癌性腹膜炎が適応外の理由であるように申し上げました。ドナー候補であった睦子さんはただただ声をあげて大粒の涙を流しており、自身の胃癌については眼中にない様子でしたので「胃の方は後日改めてご説明します」と日を改めることとしました。レシピエント候補であった雅司さんは全然違う反応でした。「そうですか」とむしろサバサバした様子で、土気色に痩せてしわがよる頬に笑みを浮かべて「家内をよろしくお願いします」と仰いました。

すべてが終わり

 ここからは、予想通り、予定されたかような流れとなりました。ドナー候補であった佐多睦子さんは一旦退院したのちに上部グループで再入院、4月下旬に幽門側胃切除術(BI)が川崎仁司先生と明石節夫先生により行われました。レシピエント候補であった雅司さんはHDと腹水ドレナージ廃液を繰り返しながらも、じっと息を殺して奥さんの病状を見守りつつ小康を得ておりました。が、しかし、5月20日過ぎになって睦子さんが退院するのを待っていたかの様に病態が悪化、腎性貧血や腹腔内出血、腹水培養でMRSA検出、肝性脳症などと、次々と終末期に向かう合併症が発生しました。この間、しばしば青森から睦子さんは面会に来ましたがどんな会話をしたかは分かりません。6月11日、消化管出血で血圧が低下、HDは中止、昏睡状態となり、6月13日0:05永眠されました。最期の確認をする背後にいた睦子さんは涙ながらも取り乱すことはなく無言であり、その日は会話をせずにお見送りとなりました。

 四十九日が過ぎた頃の暑い8月初旬、第二外科の外来で上部グループ再来に来た睦子さんを見かけました。他に患者がいなくなった待合室で長椅子の彼女の横に座り、それが膝を突き合わせて会話する最後の時となりました。どう申し上げたものか「このたびは…」と言いかけたところで彼女が口を開きました。「とても残念でしたけど、お世話になりました」と。「あのヒトも、先生方に感謝していると思います」と、彼女の目には薄らと涙が浮かんで来てか細い声でありましたが語気はしっかりとしておりました。「いろいろ大変でしょうけれど、胃(の腫瘍)の方は早期でしたし…」と申し上げると、「わたし、またも、二度にわたってあのヒトに助けられました」、涙が頬を伝って流れ落つるも「頑張ってやっていきます」と、その彼女の目の奥にははっきりと、ご主人の深い愛情に守られた命を大切に、前を向いて生きていく、そんな確かな輝きが見てとれました。

後書き

私の記憶と三葉会誌(同門会誌)の記録が正しければ、令和3年終了時点に弘前大学医学部第二外科で行われた生体肝移植は53例であり、その10数例目にはなれなかったものの、深い絆で結ばれたある夫婦の物語でありました。昨年8月に逝去された佐々木睦男教授への追悼文としてここに記録いたします。尚、当コラムの文章は、平成14年7月29日、第57回日本消化器外科学会総会(於京都)にて発表した実在の症例に基づいて描き、第66号三葉会誌に掲載されております。

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